メンタルヘルス対策、人事担当としてどこまでできたら合格ライン?
企業でのストレスチェックの義務化から2年以上が過ぎた。2017年3月に公表された、働き方改革の実行計画にも、メンタルヘルス対策の政府目標が設置されることが明記されている。しかし、人事労務担当者の本音はこうなのではないだろうか。
「他にも担当業務が多く、正直、メンタル対策まで手がまわらない。」
「休職者が出たら対応する対症療法になってしまっている。」
「一体どこまでが人事労務の仕事なのか。」
そうした基準が見えづらいメンタルヘルス対策。ならば、その基準に関する専門家にお聞きしよう。ということで、労働法、産業保健法が専門で、一般社団法人・産業保健法学研究会を設立し、「メンタルヘルス法務主任者」資格と講座の運営にも携わる三柴丈典 近畿大学法学部教授にお話をうかがった。
メンタルヘルス対策の本質は、経営問題
――ストレスチェックの義務化や、働き方改革の中でメンタルヘルスが言及されるなど、人事労務担当者にメンタルヘルス対策が求められています。やるべきことは多岐にわたり、かつ膨大に思えますが、ずばり、どこまでやれば人事労務として合格ラインなのでしょうか?
大前提から言いますと、メンタルヘルス対策の本質は、経営問題です。経営問題は終わりがないですよね。なので「どこまでやればいいか?」という質問は、ナンセンスだと思います。(笑)
労働者の健康を侵してしまうような長時間労働をはじめ、さまざまな「職場のゆがみ」が生じやすくなっているなかで、労使の信頼関係の再構築をする必要がある。その有力なツールとして、メンタルヘルス対策があるという構図です。
――なるほど。前提として大きな経営問題があり、その解決のために努力するのが本来であって、人事労務管理者に切り分けられた課題としてメンタルヘルス対策があるわけではないということですね。
メンタルヘルスは経営や組織のあり方と密接に関係しています。メンタルヘルスは、本人が疾病障害を抱えているなどの事情がない限り、個々の労働者が仕事そのものか職場(の仲間)のどちらかに愛着を感じていれば、悪化しにくいものです。少なくともどちらかを好きにさせれば、おおむね維持できるはずです。
行動科学の知見によると、
1)採用・配置等における人選
2)教育 訓練
3)動機づけ
4)職場における労働の構成に関わる職務設計
が機能していれば、メンタルヘルスを維持・向上させられるとのことです。つまり、
1)職務や会社の文化に合う人を採り、適材適所で配置する
2)指示した職務を遂行できるよう教育や訓練をきちんと行う
3)本人にモチベーションを持たせる
4)職場でどういう人をどのように働かせるかという職務デザインをしっかり構築し、適正な職務割当を行う
ということです。
――組織として基本的なことのように聞こえますが、これができていないことが多いのですね。
日本では、長らく、労使間は、対立関係というよりも、実際には連続した職域文化があり、信頼関係や一体感が重視されてきました。
それが、雇用の不安定化、恒常的・非自発的な長時間労働、メンタルヘルスの問題などで、その文化にひびが入ったところで、西洋医学的に絆創膏を貼って治す――つまり、労使が労働法の条文を根拠に形式的に権利利益を主張するとか、欧米の訴訟の作法を真似るという形ではなく――いわば、東洋医学的に、新たなフェイズに対応できるような信頼関係をつくり直していくのが21世紀の産業保健の重要な課題のひとつだと考えています。
――今までとは違った専門性が求められますね。
そうですね。戦後の高度成長期には、産業保健とは、おもに工場労働者らを有毒物質や感染症から守るという健康管理を指し、産業保健に携わる人は化学や細菌学などに詳しい必要がありました。しかし、時代は移り、産業保健の性格そのものが変質しました。いまや産業保健は私生活や個人の考え方、組織心理にかかわっていく仕事なのです。
恒常的・非自発的な長時間労働の是正やメンタルヘルスの向上には、労使間の信頼関係の再生が不可欠です。そこにいまの産業保健が取り組むべき課題の本質があり、それが組織改革であり、経営問題の一環だとすれば、もちろん、取り組みに終わりはないのです。また、その実現には、労使双方の目線が求められます。
――取り組みに終わりはない。とはいえなにかの目安はないのでしょうか。
法的リスク対策という視点での線引きはできます。わかりやすい目安としては、とりあえず法令とガイドラインを遵守していればよいといえるでしょう。そのポイントは、メンタルヘルスを推進するための体制づくりと手順づくりです。
たとえば、ストレスチェック制度も、ストレスを減らせと定めているのではなく、ストレスチェックの実施とその結果に基づく事後措置を義務づけているのです。ストレス自体を無くせとか、減らせと言っても無理な相談です(笑)。
そうした発想を基本としつつ、まずは「リスクを減らす(≠リスクを無くす)」方向で、今ある課題に優先順位をつけて対策を考えるのがいいと思います。
企業ごとに個性は違います。企業文化、組織風土も違います。そして、弱点は往々にして、強みの裏返しとして現れます。メンタルヘルス問題は、特にそうだと思います。そうした弱点のなかで、法的に、あるいは実質的に会社をつぶしかねない問題から、優先順位をつけて対応せねばなりません。それも、その個性の良い面をつぶさないように改善を図る必要があります。
産業医を説得材料のチャネルのひとつに
――ただ、中小企業では、少ない人数、ときには一人の担当者が人事や総務に関するあらゆることを引き受けている現状があり、メンタルヘルス対策にまで手がまわらないところも多そうです。
そうですね。人事労務担当者だけの力ではできないので、内部の関係者や、今まで連携していなかった人たちも巻き込む必要があります。
人事労務管理者は、ぜひ産業医を上手に使ってほしいですね。産業医を長時間労働者やメンタルヘルス不調者の面談や、復職判断の場面で頼るだけでなく、経営者や企業全体に、産業保健に取り組ませるための説得材料のチャネルのひとつにするという考え方が大切だと思います。
そのためにも、産業医は、法律の専門家である必要はありませんが、関係判例の動向にある程度詳しいことが求められます。法令やガイドラインも、事件やトラブル事例などの後づけとして形成されることが多くあります。
判例は、現場に即した「生きた法」なので、産業医の先生が詳しくなり、「過去、こういう事例がありました」などと根拠を述べて、「こういうことをするとまずいですよ」と、経営側への説得力のひとつにしていって欲しいですね。それも、法知識に使われるのではなく、あくまで、職場事情をよく知ったうえで、経営を質的に改善していくためのチャンネルとして活用して頂ければ理想的だと思います。
――産業医には経営のセンスも必要ということですか。
そうですね。そう考えると、産業医というのは、つくづく厳しいタスクを求められる仕事だと思います。医師という職人なのに、組織人として「大人の論理」で語ることを求められるからです。医師というのは、本来、論理と倫理に仕えることを良しとされる職業なんでしょうが―むろん、臨床を含め、人を相手にする場面ではそうもいかないでしょうが―、産業医は、このほかに道理に仕える必要が多分に生じます。
私は、産業医には、論理、倫理、道理という三つの理が必要だとよくお話しています。
――論理と倫理と道理ですか。
たばこを例に挙げれば、「喫煙や受動喫煙の有害性について、こういうデータが出ているので、煙草はやめるべき」というのが論理。「たとえデータが不確実でも、道徳的な人物なら、たばこのような嗜好品に手を出しません」というのが倫理。「とはいえ、人間、生きていればストレスも溜まるし、煙草を吸いたい気持ちはよくわかりますよ」というのが道理です。
道理というのは、言わば「大人の作法」であり、人間の弱さや矛盾を受け入れ、正面から認めたうえで形作る説得力です。政治家的な方便といってもいいでしょう。論理的でも倫理的でもないのだけれど、相手の気持ちを汲むような物言いですね。「私は、阪神優勝、巨人全勝を全力で願っています」などと言って、阪神ファンと巨人ファンの両者をうまく納得させてしまうような物言いです。
産業医がその道理に親しむには、やはり商いや法律の勉強をする方がよいと思います。それも、形式論じゃなくて、実践論を学ぶ必要があると思います。医師としての知識や技量以外に、経営や法律の「考え方」を学ぶ必要が出てくるように思います。
――産業医のイメージも、これからどんどん変わっていきますね。
名義貸しや、臨床の片手間が産業医の当たり前という時代もありましたが、昨今はだいぶ状況が変わって来ました。今は、産業医の資格を持つ方は約9万人、そのうち実働している方は約3万人、さらに産業医業がおもな収入源である方が約1000人いると言われています。
そして、若手でも、能力がありながら臨床の医局制度独特の世界観になじめなくて産業医になった方や、臨床にある程度従事した結果、予防の大切さを実感したり、魅力のある働き方をしている先輩の影響を受けて積極的に産業医を選択した方など、志をもって就業している方が増えています。
また、結婚、出産、育児などのライフイベントと医師業を両立させたい優秀な女性の産業医志望者も増えて来ました。産業医は、組織の力学を調整する、組織心理学的な仕事が多いため、ジェンダー論的に、細やかなコミュニケーションが得意な方が多いという意味で、女性に向いているという面もあるのかもしれません。
――確かに、女性の産業医の先生の登録は、弊社でも増えています。
産業保健スタッフは“与党内野党”を目指す
――ところで、先生が立ち上げられた「メンタルヘルス法務主任者」講座についてうかがいたいのですが、どのような受講者が多いですか。
当初は社労士さんが多かったのですが、最近は、意欲的に活動している産業医のほか、中規模以上の会社の人事労務管理者の受講者が増えています。また、弁護士の受講者も出て来ており、仕事上、実際に産業保健に関するトラブルや事件に関わったか、そのリスクを感じた経験をお持ちの方が多い印象を持っています。それは、産業保健に関する実践的な法律論の最先端を伝える、という講座のコンセプトが、そういう方々に響いているということだと思います。
そして、この講座で学ばれた産業保健関係者の方々には、法律論の知識を説得のチャンネルの1つとして、うまく経営改善、組織改革に活かしていく、“与党内野党”的役割を期待しています。
――“与党内野党”、ですか?
はい。産業保健の専門家には、組織のなかでの与党内野党のような、歴史上の人物でいえば、天下のご意見番として、徳川家光に諫言を重ねた、大久保彦左衛門的な役割も期待されていると思います。
ただ実権者におもねり、会社組織にどっぷりつかっているわけではなく、会社のために、実権者に厳しいことも言えるが、根っこにはその会社をよくしようという愛着があるような人物です。逆に、組織の実権を持つ方には、組織の懐づくりに産業保健職が役立つように活用して頂ければと願っています。
たとえば、産業医の仕事として、健診やストレスチェック、それらを踏まえた面談などが委ねられることが多く、これらは対個人の業務です。しかし、個々のデータを蓄積すれば、それなりのビッグデータとなり、それを産業医学的な視点で分析すれば、企業の売り上げなどとは違うベクトルから、経営の質的な改善のための提言ができるはずです。それも、企業内外の様々な関係者と協働すれば、よりパワフルになると思います。
産業医がそうした役割を果たすには、産業医自身は、ある時は使用者の味方、またある時は労働者の味方となるというように、戦略的に「ぬえ」となる必要があるでしょう。
つまり、従業員の健康や生活を考えているが、会社の事情や論理も知っていて、どちらに対しても、一見きついことも言える。従業員と会社のバランスをうまく保って、従業員の健康を図るうえで、主治医より産業医を通したほうが結果が出るという信頼感を、少しでも多くの従業員に持ってもらえれば理想的なように思います。むろん、産業医が常駐していない事業場では、その役割を、他の産業保健職が果たしても良いと思います。
――従業員と産業医の関係、そして経営者と産業医の関係をうまく取り持つ、「ぬえ」であることが産業保健スタッフの力量、ということですね。
産業医は、ときに従業員の肩を持つ、経営者や組織の住人にとって煙たい存在に映るかもしれません。けれども、産業医や産業保健スタッフが、うまく「ぬえ」の役割を果たせれば、労働者の心身の本音を吸い上げる、「良い意味でのスパイ」的な役割を果たせるかもしれません(笑)。
また、産業医は、専門家として、従業員の健康管理に関する経営者らの困りごとについて、医学の専門知識、適当な紹介先、関連する法令や他社の事例などの横断的な情報を「分かりやすく」示すことで信頼を得ることもできるはずです。専門家らしい客観性の研磨と経営事情に寄り添う姿勢の両立という懐の広さと深さが必要だと思います。
経営者を説得するには、経営課題にフォーカス
――企業が産業医を活用しながら、法令遵守をはじめとして、できることからひとつずつやるしかないとすると、経営者の説得が鍵になると思いますが、中小企業の経営者を説得するにはどうしたら良いでしょうか。
会社によって、リスクがなにかも取り組むべき課題も違います。ただ、一般論として、中小企業の社長に説得力を持つ要素と言えば、
・いま困っている課題に即応している
・わかりやすい言葉で説明している
・お金か人に関わるメリットがある
・刑罰や倒産などの脅しが効いている
などが挙げられるでしょう。
――産業医の活用が「今困っている課題に効果を生む」という説得は効きそうですね。
最初にも述べたように、今の段階で、産業保健の効果を科学的に証明するのは非常に困難です。産業保健の課題が、労使関係の再構築などの経営課題に近づいてきているので尚更でしょう。ですので、経営者には、「いま困っている具体的な経営課題を解決していくための有力なチャンネルのひとつとして、産業医という資源をスタッフに加えよう」という説得の仕方が現実的なように思います。
――まさに、ここでも「ぬえ」のようにふるまうことが求められますね。それにしても、産業医や人事労務という仕事は、苦労ばかり多くて、周りには鬱陶しがられたりうるさがられることもままあり、報われない仕事ですよね。
そうかもしれません。ですが、人事担当者にしても、産業医にしても、経営者にしても、官僚にしても、ものごとを動かす仕事の価値は、いっけん「報われないこと」そのものなんではないでしょうか。
目の前の問題を、即解決して感謝されるというよりは、マクロな視点で仕組みをつくり、多くの人が働きやすい環境をがまん強く整え、それがいずれ組織や国のスタンダードになっていくという手応え、手作り感が、おそらくそうした仕事の醍醐味なんだと思います。
――「報われないことが価値」という言葉は、現場でがんばっている人事、産業保健スタッフの励みになると思います。本日は、ありがとうございました。
プロフィール:三柴 丈典 (みしば たけのり)
近畿大学法学部教授、一般社団法人産業保健法学研究会理事
1971年生まれ。1999年一橋大学大学院博士後期課程修了・博士(法学)。近畿大学法学部教授、厚生労働省労働政策審議会安全衛生分科会公益代表委員。厚生労働省・経済産業省検討会等の委員・座長を歴任。2014年6月衆議院厚生労働委員会参考人。元弁護士。一般社団法人・産業保健法学研究会主宰者(理事)。単著として、『裁判所は産業ストレスをどう考えたか』(労働調査会)、『産業医が法廷に立つ日』(労働調査会)、『労働安全衛生法論序説』(信山社)等。その他共著書、論文多数。
文/奥田由意 編集/サンポナビ編集部
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