【解説:三柴丈典先生】産業医・人事労務が知るべきリスク対応の法知識「生きた安全衛生法」
産業構造や働き方の変化に伴い、職域で生じるリスクも変化していきます。産業医を始めとした産業保健スタッフや人事労務管理スタッフは、そうした変化を念頭に置いて対応する必要があります。
労働者の安全衛生などを守る安全衛生法は、時代の変化に伴って生じる新たなリスクに対応しながら発展した法律です。来たるべきデジタル社会を想定した時、産業保健スタッフにとっても人事労務スタッフにとっても、リスク管理のエッセンスを詰め込んだ安全衛生法や、その実際の使われ方を詳しく理解することは、とても有益でしょう。
本記事では、安全衛生法の労働災害リスク対応の変遷について、近畿大学法学部教授の三柴丈典先生に解説していただきました。
また、三柴丈典先生による講義「産業医・人事らが知るべき安全衛生法~事件と監督指導実例から学ぶ生きた法知識~」についてもご案内します。
目次[非表示]
安全衛生法が対象とするリスクの歴史と転換
1.安全衛生法上の「許されたリスク」とは
安全衛生法は、職場の中で従業員の心身や財産に関するリスク管理を行うための法律です。しかし、リスクを伴う作業等を全て禁止しているわけではありません。リスク管理さえできれば許容されています。
労働安全衛生法では、「許されたリスク」もあります。
そもそも危険性や有害性がわかっていない事柄を禁止はしていませんし、仮に分かっていても、それによるリスクの管理ができる場合、一定の措置を条件に、実施が許されて来ました。また、ある程度のリスクがあっても、産業や消費者にとってぜひとも必要であるとか、中小企業であって、管理の措置が難しいような場合、半ば放任されていたりもします。
例えば、化学物質の取扱い制限は最小限にとどめられ、まだ知られていない新しい物質については、有害性や危険性を官民で調べて共有する方策を定めるとともに、有害性や危険性が判明したものについては、有効な管理の方法をある程度明確に示して実施を義務づけてきました。また、長時間労働などは必ず死に直結するわけではありません。ですので、ストレスチェックや医師との面接などにより、健康を崩しそうな人を見つけ出して、個別的な対応を図らせることにしてきました。近年は、特に、危険有害性や対応方法がはっきりしなかったり、個人や職場の条件によって異なるリスクも多いので、リスク対策に専門家を関与させて個別的な対応を図らせるような法規定も増えてきました。
そもそも、安全衛生法は予防を目的としています。すでに起きてしまった災害などについて、責任の所在を明確化するための法律ではありません。少なくともこれまでは、専門的な知識をもつ技術者らが、労働災害の防止のために、再発防止策を検討したり、(労働者が触れる)リスクを科学的に研究するなどして、有効かつ合理的な方策について、経営者への実践の働きかけを図った法律でした。賠償責任論に比べ、それゆえの緩さもありますが、厳しさもあります。
法律に定められるリスクの範囲は限られているため、規定外のリスクも生じます。さらに、過労やストレスなど、従来はリスクだと考えられていなかったものも、時代が変わればリスクとされるようになってきました。今後もそうでしょう。ですので、どうしても、法規制に過不足が生じます。目下の産業構造の急激な変化を前提にすれば、その傾向は強まると考えられます。
2.労災被害の責任を誰が負担すべきか
定型的なルールで規制できるリスクには限界があるため、新しい考え方が必要になって来ています。そもそも安全衛生は、事業者が労働者を守る努力だけで達成されるものではなく、職場で使われる機械や化学物質の製造者、建設工事の発注者や元請など、様々な関係者の配慮がなければ達成できません。また、最近はクラウドワーカーやギグワーカーらの増加もあり、個人事業者の保護も改めて問われています。
そこで、筆者が行政や学界に対して提言し、重要視されるようになってきたのが、「リスク創出者管理責任負担原則」です。
リスク創出者管理責任負担原則とは、リスクを生み出す者がそのリスクの管理責任を負うべきという考え方です。ここでリスクを生み出す者には、危険有害物の製造者など、文字通りリスクを作り出す者のほか、リスクに関する情報とそれを管理する権限を持つ者を含みます。リスクを生み出す事業を通じて利益を得ている者は、それに該当する可能性が高まります。環境法の発想に近いのですが、労働安全衛生法や、民事の労災責任に関する判例でも、根底にあると解される考え方です。イギリスやオーストラリアの労働安全衛生法には、より明確にこの考え方が示されています。
例えば、クラウドワーカーやギグワーカーなどのフリーランスとして働く人たちは、労働基準法上は労働者ではないとみなされることが多い。しかし、仮にそうでも、業務中に交通事故などの災害が発生し、それにプラットフォームが設計したアルゴリズムが大きく影響したとなれば、サービスを運営するプラットフォームは、リスク創出者として、相手が労働者でなくても責任を負うべきことになります。
上で述べたように、労使関係下で労災が生じても、そのリスクの源は別の人が生み出しているというケースも多々あります。職場で化学物質によるばく露被害や機械のはさまれ災害が発生したときに、購入先(製造元など)からその物質や機械のリスクをちゃんと伝えられていないのに、ただ雇用主だからという理由で責任を負わされては、事業者も耐えがたいでしょう。
リスク創出者管理責任負担原則をもとに考えると、(雇用者が然るべきリスク調査・管理をしていれば、)原因となる製造者らが主な責任を負うべきということになります。
建設現場での一人親方がアスベストのばく露被害にあって起きた訴訟の最高裁判決などをきっかけに、厚生労働省でも、そうした問題に関する検討会が開かれ、様々な業種の個人事業者につき、安全だけではなく健康も守ろうという検討が行われ、報告書がまとめられ、注目が集まっています。検討会では、私からこの原則を提起し、議論の基礎として頂きました。
もちろん、その原則の適用範囲、実際の運用の可能性など、課題はいろいろありますが、これからのデジタル社会の発展に際しては、特に必要な考え方になると考えられます。
3.法律が経営に介入した安全衛生法
さて、現在の安全衛生法は、どのように形成されてきたのでしょうか。
現在の安全衛生法が制定される前は、労働基準法のもとに、旧労働安全衛生規則(以下、旧安衛則)が400以上の条文をもって定められ、工場法時代から引き継いだ条文を基礎に、当時生じていた労働災害や健康障害の再発防止策をそのまま法律にするような内容になっていました。一部、危険な機械の検査、安全や衛生の専門家の活用を求めるような規定もありましたが、全体としては、産業安全仕様書(マニュアル)を法律化したようなものでした。しかし、それでは労働災害を十分に減らせなかったこと、大規模な産業の発展などもあり、1972年に現在の安全衛生法が制定されました。この際、経営工学の方法が採り入れられ、事業者の法的責任が強化されると共に、安全衛生管理体制づくりが求められました。つまり、事業者に安全衛生経営を求めるような内容に変質しました。
経営者というのは、重要な経営課題を認識すると、それを推進する部署をつくり、優秀な人材を配置します。つまり、その課題の推進体制をつくります。すると、自然にその課題の達成に向けた推進力が生まれ、機能していきます。そこで安衛法は、安全衛生について、その管理体制をつくることを事業者に義務づけました。そして、そこに衛生管理者、安全管理者や産業医などの専門人材を配置して活用するよう義務づけました。また、当時大規模工事が増え、複数の業者の労働者が工事現場に混在することから生じる統制やリスクコミュニケーションの問題、それによる災害などに対応するため、自身も仕事の一部を担うため、工事について事情を知る元請業者等に、その工事現場全体の安全管理を統括するよう義務づけました。
安全衛生法の制定により、こうした安全衛生のための管理体制づくりが、罰則つきで事業者らに義務づけられました。これは、事業者に安全衛生管理を経営課題として位置づけ、管理体制を整備させるようにした、つまり、法律が経営に介入するようになったということです。
もちろん、安全衛生法に盛り込まれた労災防止のための装置は、それだけではありません。
安全衛生法と同様に「安全の秩序づくり」を推進してきたのが道路交通法です。両法とも人の命や体、財産を守ることを目的として、人の行動や心理に働きかけることで災害や事故を減らそうと試みてきました。両者が盛り込んだ要素で特に効果的だったのが、3E(※)と呼ばれる手法です。つまり、ルールを作り、技術を取り入れ、教育を行うという3つの要素を規制に盛り込んだのです。これにより、両法とも、かなりの災害防止効果を挙げました。
これらの措置と共に、災害防止のための研究の推進も行い、再発防止策の綿密な基準化が図られました。
こうして、特に重大な労働災害は激減していきました。
※Enforcement(ルールの制定)、Engineering(技術の導入)、Education(教育の促進)
4.産業構造など時代の変化に伴うリスクの変化と求められる対応
もっとも、安全衛生法が制定された1972年と比較すると、産業構造が大きく変化しており、当時効果を発揮した規制の要素が今も有効とは限りません。制定当時は製造業や建設業が主力でしたが、昨今はデータ価値の重要性が増し、AIをうまく使い、またそれらとうまく付き合いながら、知的集約型で自由に働くようなスタイルが加速しています。
これからも組織や時間、場所に拘束されない働き方が浸透していき、フリーランスのように、労働契約に拘束されない働き方も増加していきます(非雇用契約化の進行)。一方で、特定の企業から仕事を得ないと生活できないといった、経済的な従属性は増していく可能性があります。労使の境界が曖昧になり、新しいビジネスのアイデアなどの知的な付加価値や感情的な付加価値を生み出せる人とそうでない人との二極化が進むかもしれません。
現時点での労災関係データをみると、重大災害は減少したものの、健康診断の有所見率の上昇、強い不安やストレスを感じる人の割合の高止まりといった変化が起きています。自殺者数も若干減りましたが、国際的には高い水準のままです。三次産業や高齢者では、目に見える災害の増加もみられます。小売店での転落転倒事故や介護施設での腰痛などが典型です。高齢者の災害では、つまずきや墜落などが典型です。また、機械災害でも、機械設備自体の欠陥によるものよりも、労働者が安全装置を外すなど、人間の不安全行動(未熟さ・知識や見識不足)による行動災害が多くなったという変化もあります。
他方で、積み残された伝統的な課題もあります。たとえば、化学物質に関しては、特別規則での規制が追いつかず、規制対象外の化学物質によるばく露被害が継続しています。行政の公表資料では、ばく露被害の8割は特別規則の規制対象外の化学物質によるとされています。一つの物質を規制するのに5~6年かかる一方で、新しい化学物質は年間で約5000種類も作られています。そのため、事業者による自律的管理が必要となったという経過があります。零細企業や外国人労働者に関わる、機械の挟まれなどの伝統的な災害も多く生じています。
総合すると、伝統的な災害もまだ生じていますが、現に生じたり、注目されるリスクが変質してきています。すなわち、目に見えやすいリスクから、ストレスや脳心臓疾患などの見えにくい健康リスクへと変質し、規制の主な目的も変化しています。これらの中には、人間にとって毒にも薬にもなるなど、「リスク」と呼ぶべきか疑問なものも含まれています。伝統的な積み残し課題への対応も必要ですが、自律的な管理や、ある種のリスクテイクも含め、自分の人生を自分で決める(健康リスクは承知で仕事をやりきることで納得を得る選択などの)方向づけも必要になってきており、安衛法の役割も、文系的、哲学的になってきています。単なる健康オタクづくりが安衛法の進むべき途とも思えません。
安衛法の本質はリスク管理なので、新たに保護すべき対象を再定義しつつ、必ずしも労使関係にとらわれず、リスク管理を進めていく必要があります。それと同時に、個人と組織の納得の最大化といった新たな目的を設定し、対応していく必要もあります。
5.経営者から求められる産業医像とは
安全衛生法は、技術的な法律だったので、活用される専門家も技術者が中心でした。その延長で登場したのが産業医です。しかし、法の取扱い対象がストレスなどにまで及ぶと、文系的な専門家も求められるようになっています。時代の変化を受けて、経営者から求められる産業医像も変化しています。医療の専門性と倫理を基礎としつつも、労使間の能力や価値観のすり合わせなどの文系的な作業も求められるようになっています。もめ事からも逃げない、リスクテイクできる胆力と学識も求められてくる。従業員の働き方や生き方自体に産業保健が立ち入るとなると、一方では情報ツールなどの技術を駆使できるが、他方では、人や組織の「死に方」まで考えてアドバイスできるような幅のある人物が求められてくるでしょう。
常に重い責任を背負い、心配事が絶えない経営者から信頼を得るためには、医療知識だけなく、胆力と社会性を支える深い経験や哲学が必要になるでしょう。
そもそも、安衛法自体が、人事労務管理者や予防を重視し、人間観察力のある法律家を活用する必要が生じてきています。産業医らも、自らそういう素養を身につけるか、そうした人材と積極的に交流し連携していく必要があると考えられます。
6.安全衛生法の保護対象と名宛人の見直しが求められる
上述した通り、安全衛生法が保護する対象も変化していきます。従来は、雇われている労働者こそが弱い立場にあり、保護する対象だという前提で法律が作られました(工場法時代まで遡れば、被用者以外も保護対象に含まれていましたが)。しかし、自殺者の多くは個人事業主や事業家であることを見ても、もはや雇用者=強者、被用者=弱者という構図は成り立ちません。
そのため、安衛法のみならず、社会政策の対象となる「立場の弱い人」を再定義し、見直す必要があります(ただし、規制の趣旨に応じて守るべき対象は異なる)。データ価値の重要性が増す産業構造の変化の中で、知的、感情的に付加価値を生み出せない人こそが、立場が弱い人といえるのではないでしょうか。ある程度のITスキルすらない人はもとより、新しいビジネスのアイデアを発想したり、他者の感情に働きかけたりするような付加価値を自分で生み出せない人です。
付加価値を生み出せないため、経営者や取引相手との関係で交渉力が弱く、弱い立場に置かれてしまうような人です。
また、本質論としては、愛される自信がない人も、守られるべき対象だといえます。こういう人達が、組織との不適応を起こして、上司、人事、産業医らを悩ませていることが多くあります。愛される自信がある人は、たとえ給料や報酬が低くても、さまざまなところに甘えられる。結局助けてくれる人が現れて、どうにかやっていけることが多い。
保護する対象に加え、諸措置の義務付けの対象(名宛人)を見直し、そのための方法について再考する局面にきています。その際、安全衛生法には、さまざまな専門家がリスク管理策、労災等の予防策を考えてきたため、他の法分野より、規制技術の工夫が詰まっています。
7.安全衛生法の発展と今後の課題
上述したように、安衛法が対応を求められるリスクが複雑化しています。そもそも危険有害性が不明確なリスク、状況に応じて顔を変え、対応策も変わるリスク、リスクと断定できないものへの対応の必要性などから、専門家の活用を図るような規制が増えてきました。こうした課題への対応は、法令で一律に担保することは無理なことからも、専門家の力を借りながら、その性格、各企業や現場の事情に応じた対応を図っていくことになったということです。
例えば、化学物質へのリスク対応に関しては、作業環境測定法により、作業環境測定のデザインから評価までの体系と共に、作業環境測定士や測定機関を定め、その活用を促しました。疲労の蓄積や過剰なストレスへの対応に関しては、医師による面接指導などが定められました。こうして、専門家をうまく活用しながら、複雑なリスク(?)に対応していくことが、事業者に求められるようになったのです。
他方では、がん患者等を想定した治療と就労の両立支援策やフリーランスの健康増進策など、従来の労使関係に基づくリスク対応以上の施策も展開されています。こうして、安衛法の対応すべき課題は、縦横に広がっています。必要な対応も、労使のみならず、さまざまなステークホルダーを巻き込まなければ実現が難しくなってきています。
時代の変遷の中で一貫して取組が進んでいるのは、再発防止の基準づくりや安全を担保できる技術の発達です。例えば、防じんマスクは性能が高くなっており、マスクの隙間から粉塵を吸収するようなリスクは以前より減少しています。モノの安全性の発達は、企業規模を問わずに効果を発揮します。
一方で、安衛法におけるリスク創出者管理責任負担原則の展開の不十分さ(やリスクに対するルールの過不足)、安全衛生に関する一般的な経営者の意識の低さなど、残された伝統的な課題も多くあります。
8.現場のリスク対応に役立つ「産業医・人事らが知るべき安全衛生法」について
労働災害や健康障害を含め、事業上のリスク対応を考えるには、温故知新の姿勢が必要です。現在進行中の産業構造の変化への対応だけでなく、過去を知ることが重要です。製造業などが主流だった時代には、どのような法政策が講じられ、現場はどう対応し、どのような効果がみられたのか、遡って読み解かないことには、未来展望もできません。
安全衛生法は、折々のリスクを念頭に、さまざまな専門家が知恵を出し合って発展してきました。その歴史を制度と運用の両面から振り返る作業は、不確実性の下での産業保健の他、経営や人事労務管理の戦略に大いに役立つでしょう。
今回の講義では、行政官の監督指導状況のほか、実際の事件と裁判所の判断を多くとりあげたうえで、それらをどうすれば防げたかについて、技術専門家から聞き取った意見も紹介します。「失敗学」の観点を重視し、予防に生かせる内容となっています。
私の基本的な考え方は、「生きた法」です。
「法律で決まったことをただ守る」という考え方ではなく、法を作った人の思いや使う人の悩みに着目しています。
安全衛生を素材に、現場、制度、国際、学際の幅広い視点で、予防とリスク管理について、生々しく、分かり易くお話します。産業医や保健師、看護師などの専門職だけでなく、人事労務に携わる担当者の方にもご参加頂ければ幸いです。